Ein Bild zeigt Klosterneuburg

歴史

ブドウは優に6千万年以上前から存在した。氷河期後の温暖な時期(10,000~5,000年前)に、ブドウはドナウ川周辺から欧州の北西部に広がった。ホモ・サピエンスは我々が今日一般的な欧州ブドウとして知っているのと同じ野生のブドウを発見し、育てた。

紀元前700年

ケルト人とそのイリュリアの祖先がブドウ栽培を原初的形式で始め、ハルシュタット文化時代のヴィティス・ヴィニフェラ種の種が、ブルゲンラントのワイン産地にあるツァーガースドーフ村の、かつてのケルト人の住居跡で発見されている。ニーダーエスタライヒでは、青銅器時代にトライゼンタール地方やヴァインフィアテルのシュティルフリート・アン・デア・マークで、ブドウが栽培されていたという事実を示唆する、さらなる証拠であるブドウの種が見つかっている。

紀元前1年

ローマン人はブドウ栽培を積極的に行い、その栽培地域はオーストリアの緯度に達した。ドナウ周辺、ノイジードル湖の近辺、ズュートブルゲンラント、そしてニーダーエスタライヒのカルヌントゥムやズュートシュタイヤーマークのフラヴィア・スローヴァでその証拠が確認できる。

A picture shows the Heidentor in Carnuntum
© AWMB / Armin Faber

276~282年

ローマ皇帝マルクス・アウレリウスは、ドミティアヌス帝によりアルプスより北でのブドウ栽培禁止令を撤回し、自軍をパノニア平原へと率い、新たなブドウ畑の植え付けを認可した。

448年

ローマ人がついにノリクム地方の支配を諦めると、それに続いて大量の移民が押し寄せる時代が到来し、広大なブドウ畑が打ち捨てられた。

795年

カール大帝は“御料地令”を発令し、ブドウ栽培、やブドウの木、そしてワイン法についての詳細な情報を記した。カロリング王朝により植民支配下にお いては、ブドウ栽培は、仏より東の地方で常に奨励され、結果としてブドウ畑の測量地図が作られ、より有益なブドウ品種への改植が進んだ。

890~955年

ブドウ栽培は、マジャール人の侵攻の後、著しく後退する。

10~12世紀

シトー派は、テルメンレギオンのハイリゲンクロイツ修道院とそのフライグート・タレルン修道院ワイナリーを通して、ブルゴーニュのブドウ栽培技術を オーストリアに伝えた。間もなくバヴァリアのキリスト教区と修道院がドナウ沿岸に入植し、ドナウ川とその支流を整備し、畑を開拓し、ヴァッハウの石段の段 状畑を築いた。当時は、ババリアン・ニーダーアルトライヒ、ヘリーデン、テーゲルンゼー、マッテン寺院、フライジング、パッサウ、レーゲンスブルク教区な どの修道院や、この地方に領地を所有していたザルツブルク大司教がブドウ畑を耕作していた。

1176年

ハウス・オブ・バーベンベアクが首都に移転した後、ウィーンはブドウ栽培のブームを迎える。ウィーン市民がブドウ畑購入を許された結果、市内の多くの部分がブドウ畑になった。

1327年

マウワーバッハ・カルテアハウス所有のザイツァーケラーはウィーンのドロテーアガッセに移転し、その後60以上のセラーが、農地所有者が自家製の食べ物や飲み物を出す居酒屋、或いは所謂“トリンクシュトゥーベン”に転換された。

1359年

オーストリア君主、ルドルフ4世は、“ウンゲルト”として知られる10%のワイン税を発令し、地主に有利な法令を導入。町や領土の君主にワインの移送や輸入に対し課金することを許した一連の通行・運搬料を課した。

15~16世紀

オーストリアのブドウ栽培面積はその絶頂に達し、ドナウ川周辺のウィーンから西部の高地オーストリア、シュタイヤーマークのゼンメアリンク、さらに ザルツブルク、カリンシア、チロル、そしてフォーラールベアクにまで広大なブドウ畑が広がり、その栽培面積は今日の3倍を誇った。

1524年

ハンガリーのマリア女王は、原産地保護統制の初期のカタチとして、ルスト産ワインに、その樽に大文字の“R”を刻印することで特権を認めた。

1526年

エスターハージ王家のワイナリーが、ブルゲンラントのドネアスキルヒェンの村産の、文書に記載された最初の貴腐による甘口デザートワイン(かなりの 確証でトロッケンベーレンアウスレーゼ)を生産。“ルーターヴァイン”として知られ、エスターハージ家のパウル王子は1653年に大樽を一樽購入。そのワ インは300年以上にわたって楽しまれ、最後の一滴は1852年に注がれたとされている。

1582年

ウィーンにあったシュッテンシュティフト(スコットランドの寺院)のヨハン・ラッシュ(1540年~1612年)は、ドイツ語圏における最初のブド ウ栽培とワインの本として良く知られた"Von Bau, Pfleg und Brauch des Weins"を著し、出版した。

17世紀

ワイン生産量は宗教上の矛盾やトルコ軍による包囲、高い税、ビール生産の増大などの理由で抑制された。

1681年

ノイジードル湖畔のルストの町は、6万グルテンと500桶のアウスブルッフという膨大な支払いによって自由帝国都市の地位を得た。

18世紀

マリア・テレジア(在位1740~1780年)、とその息子ヨーゼフ二世(在位1780~1790年)は、ブドウ栽培を再活性化させ、この時期にブドウ栽培やワイン造りに関する調査が行われ、革新の発端となった。

1784年

1784年8月17日のヨーゼフの回覧法令布告は、全ての人々にワインを含む自家製の食物を供し、年中いつでも、またいかなる価格でも、売ることを認めた。これが即ち著名なブッシェンシャンク法の始まりで、オーストリアにおける‘ホイリゲ’と‘ブッシェンシャンク’への最初のステップだ。

A picture shows a traditional Buschenschank
© AWMB / Bernhard Schramm

1860年

アウグスト・ヴィルヘルム男爵はクロスターノイブルクに最初の醸造学校と研究センターを設立し、1874年にそれは国家の管理するところとなり、1902年以来ブドウ及び果実酒栽培・醸造連邦大学となった。これは公式には世界で最初の栽培醸造学校で、帝制時代を通して、これをモデルとして同様の研究機関が出現した。

19世紀

ブドウ畑における最初のオイディウム(うどん粉病)の発見が1850年、ペロノスポラ(ベト病)の発見が1878年にあった。1872年のフィロキセラの到来は当初見過ごされ、オーストリアのブドウ畑とブドウ農家の生活を、広い範囲にわたって荒廃させた。

1890年

ルートヴィック・ヘルマン・ゲーテは農業協会の会長になり、オーストリアのブドウ栽培保護につくし、この地域におけるブドウ品種の起源に関する先見的文書を刊行した。

1907年

オーストリア最初のワイン法が施行された。ワイン生産において、法によりなにが認められるかが記載され、人造ワインの生産は禁止された。

1918年

ハプスブルク帝国崩壊の後、オーストリアのブドウ畑は1930年代までに3万ヘクタールほど減少した(第一次世界大戦の勃発までに48,000ヘクタール減らすことになる)。

1922年

クロスターノイブルク果樹園芸大学のフリートリヒ・ツヴァイゲルト教授――後のウィーン高等リサーチセンター所長――は、地場品種であるSt. ラウレントとブラウフレンキッシュの交配に成功し、オーストリアのもっとも重要な新種、ブラウワー・ツヴァイゲルトを創り出した。

1936年

農業省は新たなブドウ畑の植付とハイブリッド品種の直接の植付を禁止する新たなブドウ栽培法を可決させた。これは第一共和制時代の農業政策における強烈な保護主義的性質を例証する最好例だ。

1950年

ローレンドーフのワインの開拓者であるレンツ・モーザーは、彼の革新的な本"Weinbau einmal anders"(ブドウ栽培の新たなアプローチ)を出版し、大部分の伝統的栽培技術に反論した。1950年代に整枝法がかなりの速さで“ハイカルチャ-”に転換されたことで、栽培の機械化と合理化を進め、収量の注目すべき増大をもたらした。80年代にはブドウ畑の総面積の90%がハイカルチャーで仕立てられていた。

1985年

オーストリアワインに違法な添加物であるディエティレン・グリコールが混入されていることが発見された後、ワインスキャンダルはバルクワイン価格の法外な落下を引き起こした。続いて、オーストリアワインの輸出は一夜にして消滅し、それから一年以内に、オーストリアワインを監督検査するための、新らしい厳格なワイン法が導入された。

1986年

オーストリアワインマーケティング協会設立。オーストリアワインのイメージと売上振興にあたる。

1991年

オーストリア‘ワインアカデミー’――ドイツ語でディプロマレベルを教える最初のWSET認可校――がルストに設立される。センターはワイン文化振興を目的とした幅広いレンジのコースやプログラムを提供している。今日、年間一千セミナーに2万人が参加しており、ヨーロッパ最大のワイン学校となっている。

1995年

オーストリアのEU加盟に伴い、ECワイン法が認められた。

2000~2008年

ワイナリーの振興と財政援助のためにEUの施策が導入された。その一方で、過剰な生産を抑制するために、ブドウの自発的引き抜き奨励補助金が手渡された。

2001年

ワイン振興を地方レベルで行う各産地のワイン委員会が、オーストリアワインマーケティング協会との密接な協力関係で設立された。その目的は、産地の商品のコミュニケーションや売上を向上させ、農業契約関連や品質施策を監督することにある。各地域において、ワイン・スタイルにおける産地の典型的特性を定義し、その振興とパブリシティに当たる上で、委員会の役割は重要だ。国家的ワイン機関も、地方ワイン委員会を監督し、協力関係にある。

2001年

ワイン法の改正により、ワインはDAC(Districtus Austriae Controllatus)をそのワイン生産地の名前に適用し、地方委員会によって定義された典型的特性を表示することができるようになった。国家委員会管理番号によって検査・認可され、更に産地の典型的特性に関する要件を満たしたワインだけが、ラベルに例えばヴァインフィアテルDACと記すことができる。規定されていない品種やスタイルはより広いワイン産地名、例えばニーダーエスタライヒで市場に出る。

A picture shows capsules with red-white-red banderole
© AWMB / Bernhard Schramm

01.10.2002

グリューナー・ヴェルトリーナー対シャルドネのロンドン・テイスティングはヤン=エリク・ポールソンによって運営され、ジャンシス・ロビンソンMWとティム・アトキンMWをホストに行われた。30を超すのワインの中から、トップ4に輝いたワインはオーストリアのシャルドネとグリューナー・ヴェルトリーナーで、トップ10の中にさらに3つのワインが入っていた。同様のテイスティングはウィーン、東京、シンガポールでも行われ、ラモネ、ルイ・ラトゥール、ジャド(以上ブルゴーニュ)、ガヤ(ピエモンテ)、モンダヴィ(カリフォルニア)、ペンフォールズ(豪)の人気のワインを含んでいたものの、同様の結果に終わった。


01.03.2003

地方の典型的特性と原産地を示した最初の公式なDACワインである、辛口のヴァインフィアテルDACグリューナー・ヴェルトリーナーの、2002年ヴィンテージがリリースされた。


2006年

DAC格付を得たオーストリア最初の赤ワインはミッテルブルゲンラント産ブラウフレンキッシュ(2005年ヴィンテージ)。今回は、地方の典型的特性と原産地を示したワインは、クラシークとリザーヴの2カテゴリーでリリースされた。


2007~2009年

2006年にはさらにリースリングとグリューナー・ヴェルトリーナーの原産地呼称としてトライゼンタールが出現した。同様に2007年からクレムスタールDAC、2008年よりカンプタールが、両品種のクラシークとリザーヴカテゴリーでDACに加わっている。ヴァインフィアテルDACリザーヴは2009年ヴィンテージから市場に登場する。

2010

2010年9月1日よりブルゲンランドより更に2つのワイン生産地が加わっている。ライタベアクDAC(白2009年、赤2008年ヴィンテージより)と、アイゼンベアクDAC(ブラウフレンキッシュ、クラシックは2009年、レゼアヴェは2008年ヴィンテージより)だ。